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2006.08.26

詭弁がお上手

「子猫殺し」直木賞作家 背景に「日本嫌い」
2006/8/25

日経新聞のコラムで直木賞作家・坂東眞砂子さんが「子猫殺し」を告白したことをめぐって、「全く理解できない」という声が広がっている。坂東さんの「子猫殺し」の背景には充実した「生」の実感は「死」への意識が必要だ、という独特の考えがある。それがないのが、都市であり、日本だ。「子猫殺し」は、「日本嫌い」の延長線上にある、といってもおかしくない。

日経新聞は2006年8月24日、「子猫殺し」の騒動を受け、坂東さんからのコメントを紹介した。内容は以下のとおりだ。

「タヒチ島に住みはじめて8年経ちます。この間、人も動物も含めた意味で『生』ということ、ひいては『死』を深く考えるようになりました。7月から開始した日本経済新聞社紙面、『プロムナード』上での週1回の連載でも、その観点からの主題が自然に出てきました。『子猫殺し』のエッセイは、その線上にあるものです。ことに、ここにおいては、動物にとっては生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。それは人間の生、豊穣性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会において、大きな問題だと考えているからです」

充実した「生」の実感は「死」への意識が必要だと説く

つまり、「子猫殺し」は「生」と「死」への深い洞察のなかで生まれたエッセイということになる。坂東さんの作品には実際に「生」や「死」を取り扱った作品も少なくない。直木賞を受賞した『山妣(やまはは)』(新潮社)でも、溺れる祖母を見殺しにするシーンがある。06年7月7日付け日経新聞に掲載されたエッセイ「生と死の実感」のなかでも、

「死から遮断された人々は、死の実感を失ってしまう」
「死の実感は生の実感にも通じている。生と死は、互いの色を際立たせる補色のような関係だ」

と述べている。坂東さんはこのエッセイで、最近の青少年の殺人事件で「人が死ぬのを見たかった」「殺してみたかった」などという言葉を聞くことを挙げ、充実した「生」の実感は「死」への意識が必要だと説いている。さらに、

「現代都市生活では獣の死骸はまず見ない。(略)都市とは。死を排除された空間だ」

と述べる。つまり、現代都市生活では「死」はことごとく隠蔽され、「死」への実感がないからこそ、「生」の充実もないというわけだ。そして、現代都市生活とは「日本」のことである。その理由は産経新聞に連載された坂東さんのエッセイ「タヒチ通信」を紐解いていくとよくわかる。

00 年8月28日に掲載された「南太平洋の楽園にも渋滞それは社会の流れにも似て」のなかで、坂東さんは自宅から70キロ離れたタヒチの中心都市パペエテに行くことの苦痛を述べる。苦痛の理由は、都市生活ではありがちな「渋滞」だ。坂東さんは日本の会社員が「他人と同じことをしないと安心できない」として批判した後、「渋滞」について次のように述べる。

「渋滞に甘んじる心理は、社会の流れに唯々諾々と従う心理に繋がる。(略)渋滞は、人が自由に生きたいと思う欲求を無意識に潰す効果を生み出している」

「精神的にいられなくなってタヒチで暮らすようになった」

このような考え方は01年1月15日掲載の「メインディッシュはまだ?日本人の精神性について」でも繰り返される。

「私の男友達は、常々『日本は世界で最高の社会主義国だ』と言っている。個人が国家と融合し、そのため利益のために一丸となって働くということでは、日本人という精神性そのものが社会主義的であるという意味だ。(略)しかし、これは個人の自由な主張を犠牲にした上で成り立っている美点であることを、私たちは忘れてはいけないのではないだろうか」

つまり、都市生活のなかで、日本人は没個性化し自由を犠牲にしているというのである。「生」の充実という点でも、「死」を隠蔽している点でも、日本では生の充実を得られない。つまり、都市社会生活から離れなければならないのだ。

坂東さんは、02年に『曼荼羅道』で柴田錬三郎賞を授賞した式で、タヒチに住む理由を次のように述べている。

「日本という国に、日本という社会に精神的にいられなくなってタヒチで暮らすようになった」



子猫殺しの反響から出したコメントらしいけど。
大風呂敷広げちゃってどう収束させる気なのか
ちょっとwktkしてきましたよ^^^^^^^^^^^

確かに日本で、食べるために殺してる実感は希薄かもしれない。
学校でもあまり教えないし親も教えることは少ないかもしれない。
核家族になり、家から葬式を出すことも少ない。
身近なところにあまり死はないかもしれない。

生と死は対極にあるものだから、よくセットで語られる。

「死から遮断された人々は、死の実感を失ってしまう」
「死の実感は生の実感にも通じている。生と死は、互いの色を際立たせる補色のような関係だ」



一理はあると思う。
死が身近に感じられないことで人間の死に対して
なにか遠くの出来事のように感じることもあるだろう。
でも違うとも思うのだ。
死の実感とは死体を見ることでも
子猫を投げ捨てることで感じることでもない。

「タヒチ島に住みはじめて8年経ちます。この間、人も動物も含めた意味で『生』ということ、ひいては『死』を深く考えるようになりました。7月から開始した日本経済新聞社紙面、『プロムナード』上での週1回の連載でも、その観点からの主題が自然に出てきました。『子猫殺し』のエッセイは、その線上にあるものです。ことに、ここにおいては、動物にとっては生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。それは人間の生、豊穣性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会において、大きな問題だと考えているからです」



こう書いてはあるが、所詮底が浅いと思ってしまう。
動物にとって生きるとは何か、ねえ、ふーん。
自分がペットとして飼っている、今存在する親猫に対しては
生を充実させるとかいう彼女の価値観で
盛りがついたら産む、育てはしないという
獣としても歪んだ生き方をさせているのに
何を言い出すんだろうね。

一番生を冒涜してるのは彼女自身だと思う。
セックスはいいが、子供は邪魔だ、そういうことじゃないか。
「痛みを背負う、社会的責任として」と
言葉を飾って正当化しているだけのエッセイを
さらに大風呂敷広げて
「子猫殺しを通して動物の生、人間の生きる意味について
読者に問いかけたかった」
と来たもんだw

生きる先には死がある。
生き物はすべて死に向かって歩いている。
だが自分は死んでも自分の遺伝子を残すために交尾し
子を産み、育て、そして死んでいく。
自分が死んでも自分の子が子を産み、育てる。
それが自然の姿なのだ。

生きる意味など、動物は考える余裕はないだろう。
生きることに必死だから。
何にでも理由をつけたがるのは人間だけ。
この人だって「生の充実」だの
「死の実感」だの言い繕ったって
自分の飼ってる犬猫に対して
「神の目線」でモノを言ってるだけなのに
自分でそれに気付いていない痛さに呆れる。
血統の正しい犬の子はそのままで
雑種の仔は始末するという傲慢さ
飼っているネコは自由を謳歌させるが
生まれたての子猫には生きる権利すら許さない傲慢さ。
そしてそれを文章として発表する時には
「私はいいことをしてるわけじゃないけど生死を真剣に考えている
あんたたちはどうなのよ、日本でそんなこと考えてるの?」
とまるで自分が高みに立っているような書き方。

バカじゃないの?

頭でっかちな中学生のような論理を
「直木賞作家」様だと新聞に垂れ流しても
ありがたがられると思ったら大間違いだよ。

いや、中学生に失礼か。
死が隠蔽されているというが、意外と死は身近な存在なのに。
日常的に死骸が転がってるようじゃないと
人間は死について考えないのだろうか。
そんなに想像力が欠如しているものだろうか。

どんなに言い繕っても
子猫を無駄に崖下に放り投げて、責任回避してる
ことだけは変わらないんだけどね。
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